【現代語訳】修證義 第一章 総序

2018年01月13日 / 【現代語訳】曹洞宗のお経

『修証義第一章 総序』現代語訳


第一節
生とは何かを明らかにし、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として最大の課題である。生死の中に仏のさとりがあれば、生死は無くなる。ただ、生死がつまりは涅槃だと心得、生死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。この時、初めて生死を離れ自由自在となるが、これこそが、まさに仏教徒としてこの世界に生を受けた最大の課題だと究め尽くすべきだ。

第二節
人として生まれることは難しく、仏法に遇うことはまれである。今の我々は、これまでに重ねてきた善い因縁に助けられ、既にありがたくも人として生まれたばかりではなく、遇いがたい仏法に遇うこともできた。生死輪廻を繰り返す中での善い人生であり、最も勝れた人生である。その最も勝れた善い人の命を、無駄にして、はかない露のごとき命を、無常の風に任せたままにしてはならない。

第三節
無常の命は頼りとはならない、露のごとき命は、どのような道の草に落ちて、一生を終えるかは誰にも分からない。この身は、自分の思い通りにはならず、この命は、過ぎゆく時間の中でわずかであっても留めることは難しい。若々しい少年時代の顔はどこかに去り、面影を探しても跡形すら無い。じっくりと観察したところで、過ぎ去った時間には再び逢わないことが多い。無常が突然に来るときには、国王も、大臣も、親族も、従者も、妻子も、素晴らしき財宝も、何も助けてはくれない。ただ孤独に黄泉に行くのみである。その時、我が身に従うのは、生前になした善悪の行いとその報いのみである。

第四節
現代において、因果の道理を知らず、行いと報いとが対応することを明らかにせず、過去・現在・未来の三世を知らず、善と悪とを正しく区別しない間違った見解の者の仲間に入ってはならない。そもそも因果の道理は明らかで、私情を差し挟むことはできない。悪をなした者は悪道に堕ちて苦を受け、善き行いをした者は善道にのぼって楽を受けることは、わずかばかりであっても違うことはない。もし、この因果の道理が虚ろなものだとすれば、諸仏がこの世界に現れることはなく、達磨尊者がインドから中国に来て迷える者を救うこともなかったことだろう。

第五節
善悪の行いと報いの関係には三種類ある。第一は今生の行いの結果が今生で現れること、第二は今生の行いの結果が次の人生で現れること、第三は今生の行いの結果が更に後の人生で現れることである。仏の道理を修め習う最初に、必ずこの三種類の因果を学ぶのである。そうでなければ、多くの場合は誤って、因果の道理を否定する間違った見解に陥る。ただ、間違った見解に陥るのみではなく、悪道に陥り長い間、苦を受けることになる。

第六節
まさに知るべきである。今生の我が命は、二つや三つもあるわけではない。間違った見解に陥り、その結果、無駄に悪しき報いを受けることがあれば、この尊い命は惜しんでも惜しみきれない。悪をなしても、悪ではないと思い、悪しき報いなどあるはずもないと誤って思うからといって、悪しき報いが来ないわけではないのだ。

訳文提供:菅原研州師